はじめに
企業のM&A(合併・買収)で発生する「のれん」の会計処理について、日本の会計基準を作る財務会計基準機構(FASF)が、2026年7月27日に開かれた企業会計基準諮問会議で、現行の「定期償却」を維持することで正式に決定されました。約1年間、専門家や関係団体からの意見聴取が続けられてきたテーマです。今回は、この決定の背景と内容、そして実務への影響を整理します。
のれんとは何か
「のれん」とは、M&Aのときに、買収先の純資産額(資産から負債を引いた金額)を上回って支払った金額のことです。買収先のブランド力や技術力、顧客基盤、将来の収益力など、貸借対照表には表れない「見えない価値」への対価として、買収した企業の資産に計上されます。
今回決まった方針の内容
今回の決定のポイントは、大きく2つです。
1つ目は、資産に計上したのれんを一定期間(最長20年)かけて規則的に費用化する「定期償却」を、これまでどおり続けるという点です。
2つ目は、企業が「償却する」か「償却しない」かを選べる選択制の導入を見送るという点です。
あわせて、償却による利益の押し下げをやわらげ、海外企業との比較をしやすくするため、決算書類で「のれん償却前利益」を開示する方向性についても、実際に基準を作る企業会計基準委員会(ASBJ)へ提言していくとされています。
非償却化・選択制を求める声が出ていた背景
IFRS(国際財務報告基準)や米国会計基準では、のれんを定期的には償却せず、年に1回以上「減損テスト」を行い、価値が下がったと判断されたときだけ損失を計上する方式が採られています。
これに対し日本国内では、経済同友会や日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA)などの団体、スタートアップの経営者を中心に、非償却化や選択制を求める声が高まっていました。理由は、スタートアップ買収で生じやすい多額ののれん償却費が、毎年の営業利益を押し下げ続け、企業の買収意欲を弱めているという問題意識です。また、償却費が発生する日本基準の企業は、IFRSを使う企業に比べて営業利益が低く見えやすく、投資家への説明や海外企業との競争の面で不利になりやすいという指摘もありました。
なぜ「定期償却維持」が選ばれたのか
検討の結果、非償却化・選択制の導入は見送られました。
主な理由は2つあります。
1つ目は、財務リスクと、減損計上が遅れてしまうことへの懸念です。非償却の仕組み(減損のみで対応する方式)は、経営者の見積もりや判断に頼る部分が大きく、減損の計上が先送りされやすい傾向があります。その結果、将来、多額の減損損失が突然発生するリスクを抱えることになりかねません。定期償却には、買収に伴うリスクを毎年少しずつ費用として計上し、財務の規律を保つ役割があると分析されています。実際、欧米の主要企業では株主資本に対するのれんの割合が20〜30%程度に達している一方、日本企業では1%程度にとどまっているという分析もあり、定期償却がリスクを抑えてきたことの根拠として挙げられています。
2つ目は、企業どうしの比較がしにくくなることや、経営者の判断が入り込みやすくなることへの懸念です。償却と非償却を企業が自由に選べる制度にすると、企業間の比較が難しくなるだけでなく、利益を良く見せるために都合のよい会計処理を選んでしまう懸念も生じます。日本基準を使う上場企業は約3,600社にのぼるため、基準を変えることで生じる実務上のコストに見合うだけのメリットが見出しにくいという判断もあったとみられます。
実務・企業経営への影響
今回の決定によって、日本基準を採用する企業は、今後もM&Aで発生したのれんを一定期間にわたって償却する前提で投資判断を行うことになります。そのため、買収価格の妥当性や、買収後の利益計画への影響を、従来以上に慎重に検討することが重要になります。
特に、中堅・中小企業では、M&Aは一度の投資額が企業の財務体質に与える影響が大きく、買収価格が過大であれば、長期間にわたってのれん償却費が利益を圧迫し続けることになります。会計上の利益だけでなく、金融機関との対話や株主への説明にも影響を及ぼすため、「いくらで買うか」はこれまで以上に重要な経営判断となるでしょう。
一方で、のれん償却は単なる「会計上のコスト」ではありません。買収時に見込んだ将来の収益力を一定期間にわたって費用として配分する考え方であり、経営者に対して「買収時に描いた価値創造のストーリーが計画どおり実現できているか」を継続的に問いかける役割も果たしています。
そのため、M&Aでは「買収すること」以上に、「買収後に期待した価値を着実に実現していくこと」が重要になります。買収前のデューデリジェンスや企業価値評価は適切な投資判断の精度を高めるために不可欠ですが、それはあくまでスタートラインです。買収後のPMI(経営統合)や継続的な業績モニタリングを通じて、当初想定したシナジーが着実に実現されているかを検証し続けることこそが、M&Aの成果を左右する重要な要素と言えるでしょう。
今回の議論は、会計基準のあり方だけでなく、M&Aの成功は会計処理ではなく、その後の経営によって決まるという、本質を改めて考える機会を与えてくれたのではないでしょうか。
